「全員を受け入れる気はさらさらない」とサラリとのたまう百合子氏
(写真:産経|2017/09/29付「希望・小池百合子代表、民進希望者「全員を受け入れる考えはさらさらない」 前原誠司・民進代表と会談」)
2017年9月下旬。
安倍内閣が「解散」を表明するやいなや、口をそろえて「大義なき解散」と大合唱したところまでは順調に見えた「野党共闘」だったが、「解散」が正式表明される予定の9月28日前夜になって、屋台骨としてもっとも脆弱だった民進党の前原代表が、いとも簡単に党を投げ出してしまった(少なくとも、有権者からはそう見えた)。
野党第一党の党代表でありながら、共産党との共闘を目指す地方組織をまとめきれないと悟った前原氏は、民進党としての公認内定をすべて取り消し、今後、民進党としての公認は行わないこと、小池百合子の「希望の党」への合流を目指すと発表して、てんやわんやになった。
小池百合子が党代表に決まった「希望の党」
2017/09/29時点で、まだ公式サイトもない…
ただし、TwitterとFacebookのアカウントはある。
党綱領は、全文が9月27日付の日経新聞サイトに掲載された:
1 我が国を含め世界で深刻化する社会の分断を包摂する、寛容な改革保守政党を目指す。
2 国民の知る権利を守るため情報公開を徹底し、国政の奥深いところにはびこる「しがらみ政治」から脱却する。
3 国民の生命・自由・財産を守り抜き、国民が希望と活力を持って暮らせる生活基盤を築き上げることを基本責務とする。
4 平和主義のもと、現実的な外交・安全保障政策を展開する。
5 税金の有効活用(ワイズ・スペンディング)の徹底、民間のイノベーションの最大活用を図り、持続可能な社会基盤の構築を目指す。
6 国民が多様な人生を送ることのできる社会を実現する。若者が希望を持ち、高齢者の健康長寿を促進し、女性も男性も活躍できる社会づくりに注力する。
多くの有権者、とりわけ「民進党」支持者や自公連立には投票したくない有権者にとっては、まさに寝耳に水。共産党の小池さん(共産党政策責任者:小池晃)も目を丸くして憤懣やる方ない状況、だったに違いない。
まだ「ごった煮」状態で定義などしようもないが、語弊があるのを覚悟で現在の衆議院の野党勢力を分類すると、
◯まあ、ブレない共産党
◯そもそも保守じゃないし、共産党とも距離をおきたい勢力(踏み絵を踏むつもりはない/踏むのを諦めた人)
◯保守政策批判してたけど、保守っぽく居直ることにした勢力(踏み絵を踏むことにした人)
の3つに分かれて、今後、どのように地固めされて選挙戦に突入するか? という状況だ。
そしてその鍵をにぎるのが「百合子の踏み絵」である。
何しろ、前原代表は「希望の党」への合流を宣言したが、当の小池さんは「(リベラル派)排除する」と言い切った。
※個人的には「リベラル派」という括りは、日本で正しく使われていないと考えているので使いたくない。
この「リベラル派」が曲者。
言い回しもそうだが、政治家としての一貫した哲学や基本理念についてのごまかしの温床でもあり、日本で「リベラル派」と自称する議員たちに、普遍性な共通項があるとすれば「反対のための反対勢力」「コストx時間意識が低い」「持続不可能(場当たり的)」「外交センス/科学音痴」といったところだろう。小池さん(共産党じゃないほう)が拒絶するのも当然だし、今まさに日本の国会から「絶滅してほしい」議員たちのことだ。
◯安保法制への積極的取り組み
だけかもしれない。
憲法改正については、「護憲」的立場は否定しているものの、安倍政権の主張とは距離を保っている。
また基本理念として’「現実的な政策」を掲げながらも、エネルギー政策では「2030年原発ゼロ」を謳うなど、多くの野党議員が同調しやすい側面も維持している。
とりわけ、民進党で護憲を謳い、安保法制にも反対していた議員(蓮舫含む)にとって、「百合子の踏み絵」はさしずめエンマ大王の如き裁き、審判の場となる。なにしろ、民進党は公認を行わないのだから、小池百合子が「希望の党」公認を認めてくれない限り、無所属での出馬となる。政見放送もなければ、比例名簿もない。
与党に反対していれば自らの存在意義を示すことができた野党議員たちが、国会から一層されるのであれば、それは多くの納税者や有権者にとって、誠にありがたいことだ。
有権者は、投票しようとする議員の基本政策、とりわけ安全保障や憲法、エネルギー対策について、その議員がどのような立場をとり、それをどの程度具体的に表明しているか?をよく確認すべきである。
政治哲学や理念はもとより、選挙に望んでなお、自らの具体的な基本政策を明示していないような政治家に投票するのは白紙委任状にサインするようなもので、有権者としての責任を果たしていることにはならない。
今回の野党勢力再編をめぐる、一連の動きで見られた衆議院議員たちの行動、とりわけ民進党の国会議員たちの行動には「義」や「智」、おそらく有権者に対する「礼」も甚だしくない、とても見苦しいものだった。多くの方たちも、冷静さを保ったのは維新と共産党だけだったと思ったに違いない。
東アジアには、昔から「事大主義」という概念がある。
どちらかと言えば「ありがたい」概念ではなく、蔑むべき態度のことであり、そうした姿勢は、主に朝鮮半島における近現代の歴史に色濃く現れ、「大義」と「独立心」を重んじ、自ら積極的に発展努力する人々から見れば、いたたまれなくなる「悪しき伝統」のことである。
「事大主義」
強者に味方することを(やむを得ないと)正当化する、主に中国辺縁地域に見られる政治/外交方針の(悪しき)伝統
「事大」の語源は「孟子」の「小以事大」と説明されることが多い。しかし、孟子にとってはお門違いの話。
孟子は「事大主義」など説いていない。
孟子と言えば「性善説」を説いた人物として有名だが、この性善説でも、孟子は「人は生まれながらにして徳が備わっている」などとは主張していない。
「孟子」
孟先生も怒ってるぞ!「君たち、恥を知りなさい」
(写真:Wikipedia「孟子」より)
孟子は前提として、聖人でも悪党でも元々あった性質は「同じ」であったが、さまざまな「外的要因」により「不善」を働いてしまう、と説明する。
そして、「不善」を退けるため「四端」(したん)、つまり「4つの端緒」を指摘している部分が「性善」である:
【四端|つまり「4つの端緒」の定義と、4つの「徳」の関係】
◯惻隠(そくいん):他者の危機的状況に、利害損得を超えていたたまれなくなる心 > 「仁」
◯羞悪(しゅうお)または廉恥(れんち):他者の不正や悪を憎み、自らには恥を知る心 > 「義」
◯辞譲(じじょう):譲ってへりくだる心 > 「礼」
◯是非(ぜひ):正しいことと間違っていることを判断する能力 > 「智」
外的要因による善悪さまざまな影響に対し「四端」「4つの端緒(はじまり)」、つまり、生まれながらに誰でも備わっている「心の芽生え」を適切に高めるための「自らの努力」を連綿と続けることで、「仁」「義」「礼」「智」という4つの「徳」が得られると説明している。
昨日までの自分の主張の、舌の根も乾かぬうちに、「私は保守です」と態度をひるがえすような政治家がいるとすれば、「義」や「智」はまるでないことは明らかである。
何より、一般有権者や国会、憲法、とりわけ国会議員という職責に対する「礼」を著しく失しているし、彼らを支援し続けてくれていた地方組織の方々への「仁」の心もない。
孟子の観点から言えば、事大主義のような言動は、極めて狭い、限られた条件下でしか「徳」があるとは言えない概念だ。孟子は力による「覇者」を完全否定してはいないが、徳の有無で「覇者」と「王者」を区別している。
「強い者になびく」言動が道徳的でないことは、儒教思想の影響が今でも残る日本社会でも理解できることだし、彼ら自身の倫理観でも自覚しているのではないだろうか。
ハロウィーンじゃあるまいし、目の前の選挙を乗り切るために、選挙の時だけ都合の良い政策の仮面をかぶるなど国会議員として裏切り行為であり、犯罪的に「義」と「智」が無さすぎる。今風に言えば「コンプライアンス違反」だ。
そもそも、自らの政治家としての確固たる哲学、理念を持ち得ず、表明もしていない国会議員が、政権選択に関わる衆議院議員として議員報酬を得ていること事態が有権者や納税者に対する背任行為なのだから、いさぎよく議員としての職を辞し、自らの地元に帰ってお詫び行脚の後は黙して語らず、まずは数カ月分、できれば年収分の議員報酬に見合う社会奉仕活動を自らに課す、それが「礼」というものだ。
それからまだ主張したいことがあるなら、聞こうじゃないか。
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