いずれも、現在の日本人の多くが忘れ、教科書などでも教えることのない歴史の開かれないページで起こった。
彼は数千人、そして1万数千人の日本の将兵を率いて最前線に赴いた連隊長であり、師団長だった。
彼は、佐藤幸徳(さとう・こうとく)。
この師団長の菩提寺である山形県庄内町の「乗慶寺」には、同師団の有志の方々が捧げた追憶の碑がある:
山形県庄内町「梅枝山 乗慶寺」(ばんしざん じょうけいじ)の境内にある「顕彰碑」より
写真:庄内町観光協会 http://www.navishonai.jp/spot/111.html
1944年、太平洋戦争が絶望的に続く中で、現ミャンマーは当時、日本が1943年に建国した「ビルマ国」があった。
アウン・サン・スー・チー現ミャンマー国家顧問の父親であるアウンサン将軍に日本軍(南方軍ビルマ方面軍)が協力する形で、イギリス軍をインドに駆逐し、イギリスの植民地支配から独立させた傀儡国家だった。
インドとビルマから中国に至る「援蒋ルート」を断つという建前で、この戦争中でも、最遠方となる現ミャンマーとバングラデシュ国境という、補給計画も立てられず、そもそも作戦の成功の可能性も見いだせない中、数万の日本軍将兵がジャングルの密林の中に投入されたのだった。
悪名高き「インパール作戦」
今ここで指摘するまでもなく、日本陸軍の歴史のなかでも、もっとも無謀な作戦の1つとして知られ、「203高地」への銃剣突撃のほうがまだマシとさえ想える「日本陸軍」という組織の末期症状を象徴する盲目的な作戦行動だ。
そのまさに「狂気」のなかで、指揮官として正常な思考とバランス感覚、判断力を保ち、「その時」「その場所で」「自分にしかできないこと」を「効果的」に行動に移した指揮官(当時、陸軍中将。第31師団長)
軍人であり、現場指揮官であった彼は、上官の度重なる命令にも逆らって、独断で部隊を撤退した。
日本陸軍始まって以来の「抗命撤退」(こうめいてったい)という稀有なインシデントがここに発生した。
「軍人としては間違った判断だった」と言われる。
だが、本当にそうだと言い切れるだろうか? 私たちが教訓にすべき点は何なのか?
今の日本なら...
「自衛隊員だから仕方がない」
「警察官だから仕方がない」
「公務員だから仕方がない」
「社員だから仕方がない」
上司の「明らかに間違った、無謀な」命令に、あなたは従えますか?
それとも表向き「従ったことにするのが利口」と言い訳して、
「やったことにしして」現実から目を背けますか?
それが普通の人間かもしれない。責められないことかもしれない。
しかし、責任ある立場の人間がそれを行えば、生命に関わる状況に発展する場合がある。
会社や学校でも同じ。条件さえ重なれば、自衛隊でも同様の問題が起こりかねない。
彼の判断や行動は、人間の美徳としてだけでなく、厳格な組織にこそ必要な要素と思う。
人格を無視した無理難題を厳格に統制しようとする組織のあり方は、今の日本社会でも、無数の不幸を撒き散らしているからだ。
インパール作戦失敗の後、
この愚かな軍事組織は、傀儡国家「ビルマ国」と共に、ひっそりと日本に撤退する。
陸軍ビルマ方面軍所属で、ビルマ国日本大使館の駐在武官だった磯村少将武亮(たけすけ|当時少将)は、愚かにも、自分たちが決めたビルマ国の代表「バー・モー(Ba Maw)」の暗殺しようとして失敗。
これを知った、アウンサン将軍は日本軍を見限り、日本の傀儡であるビルマ国政府に対しクーデターを起こして、イギリス軍に寝返り、翌年1945年5月に、日本軍はビルマの腫瘍拠点から撤退し、ビルマ国も崩壊する。
多くの日本人が忘却の彼方に忘れてしまった歴史。
ミャンマーの軍政や、アウン・サン・スー・チーさんの戦いは、日本人の行動から始まっているとも言えるのだ。
責任も取らずに日本に帰国したビルマ方面軍の幹部たちは、その後、どうなったのか?
インパール作戦強行に反対した師団長を次々と更迭した牟田口廉也(当時中将)は、作戦失敗後、司令官を罷免され、参謀本部付となるものの、帰国して陸軍予科士官学校の校長になり、敗戦を迎えている。
1945年12月にはA級戦犯容疑で逮捕され、シンガポールで裁判後、収監。しかし、1948年3月には釈放。
1966年8月に脳出血で亡くなったものの、遺言により、葬儀参列者に自己弁護のパンフレットを配布したそうだ。
バー・モーを殺害しようと計画した磯村少将は帰国後、陸軍兵器行政本部で中部軍管区参謀副長になり、終戦の数日前に山梨県上空で搭乗機が撃墜、戦死した(死後、中将)。
もちろん中には、極めて聡明で、その能力を発揮し、歴史に影響を与えた方もおられる。
紹介するなら藤原岩市(ふじわら・いわいち)少佐だろうか。この方に関しては、経緯を書くだけでも長くなるので割愛するが、ぜひご自分で調べていただきたい。名前で検索するだけで、たくさんのエピソードが紹介されている。とくに、牟田口廉也との関わりを伝えるエピソードは、よく語られており、新聞や関連書籍も多い。
さて
「抗命撤退」後、上官より師団長を更迭され、結局、不起訴処分になったにも関わらず、
陸軍/大本営/政府から無視、軟禁され、終戦後も名誉回復されることなく65年の生涯を終えた
人間、佐藤幸徳(さとう・こうとく)の話に戻る。
上官の無理難題に背いて、自己の判断で部隊を撤退させた現場指揮官だ。
Wikipedia:佐藤功徳
※インパール作戦の「抗命撤退」の経緯/詳細については、Web上のほかにも関連著述が無数にあるため、ここでは割愛します。
インパールは現ミャンマーからバングラデシュに至るアラカン山脈を超えたところにあるイギリス軍の拠点だった。
「ロヒンギャ」として現在、(中国の影響力を受けている)ミャンマーの軍部による民族浄化の危機にあるイスラム教徒たちは、実はこのインパール作戦の際、日本軍に協力したビルマ(現ミャンマー)の仏教徒(当時ビルマ国でもほとんどが仏教徒であり、現在も仏教徒の比率は95%以上)たちに駆り立てられ、これに対抗するためイギリス軍の軍事支援を受けて戦わされた人たちだった。
歴史はこうして、稀に、今、世界の何処かで進行中の事件から、私たちに大切な物語を想い起こさせてくれる。
佐藤幸徳は1944年の「抗命撤退」に先立つこと6年前にも、歴史の一幕に登場している。
それは、今、世界の注目を集めるもう一つの場所。
現在、北京の共産党政権によって「中国東北部」という地方名を与えられている地域。
漢民族が女真族と読び、16世紀に自ら「満州」(当時は地名ではなく民族の名称)と名付けた満州民族の土地。
その後、日本が傀儡国家である「満州国」を国際的批判を無視し、国際連盟を脱退して建国し、その挙句、ソ連に侵略され、北朝鮮の建国を許し、現在も北京の中国共産党政府が適切に統制できていない広大な土地。
その広大な満州地方(中国東北部)と沿海州(ロシア領)が接する場所。
今後の東アジア情勢を激震させる可能性がマグマ溜まりのように充満しているにも関わらず、とくに中国が外国からの干渉を嫌うために、ジャーナリストの立ち入りも厳しく制限され、世界から無視され続けている場所。
夏とは言え、そこは北の、ツンドラの大地。舗装道路や堤防はおろか、探しても橋などない。
ソ連と満州国の国境は、「清」の時代に確定した国境を引き継いでおり、沿海州を南北に連なる山の稜線が国境をなしているが、沿海州の最南端部であるこの部分だけ、豆満江が国境をなしている。
国境として、流れるがままの大河「豆満江」(とうまんこう)が広がり、その対岸(ソ連側)に、北西南方向を豆満江に、東側を湖に囲まれた地帯がある。
孤立無援の飛び地として突出した数平方キロの三角地帯がある。ウラジオストクからわずか150kmの国境地帯であり、豆満江が日本海に注ぐ河口からわずか数キロ。海辺の湿地帯から沿海州を貫く山岳地帯が立ち上がる裾野にこの場所はある。
お椀を被せたような標高150mほどの小さな丘陵「張鼓峰」(ちょうこほう)と「沙草峰(または砂草峰)」の丘が連なる豆満江の中洲のような場所。南北でソ連側に陸続きだが、東側には豆満江の三日月湖であったのだろう南北2kmあまり、幅500mあまりの「蛤桑(ハサン)」湖が、ソ連兵の容易な接近を阻んでいる。
ソ連軍は、国境を流れる豆満江下流の平坦な地域で、小規模とは言え、標高のある複数の丘が豆満江に突き出した拠点を戦略的観点から歴史的に狙っていた場所でした。
数日前からソ連軍の塹壕構築の動きがあったことや、日本の監視兵が殺害されたこと、極東ソ連軍とモスクワとの通信を傍受した関東軍はソ連側の狙いを察知し、即時対応の現場指揮官に佐藤を連隊長として派遣した、というのが経緯でした。
ソ連軍はこの狭い地域に2万3000の将兵、戦車345両、自走砲13門、180機の爆撃機を含む250機の航空兵力を投入。さらにウラジオストクに停泊する太平洋艦隊艦艇まで動員した。
佐藤の連隊は約1/3の7000の兵力と劣勢な装備、豆満江を挟んだ満州(朝鮮)側の丘陵に布陣した連隊の砲陣地からの火力による支援しか受けられなかった。日本軍の砲陣地から死角になるハサン湖の北側の陸路から侵入するソ連軍に、ジリジリと後退を余儀なくされ、この2つの丘が連なる三角地帯に閉じ込められてしまった。
ロシア側の地図にも、もともとロシアと清朝が確定した国境線が見て取れる。
その国境線は、ハサン湖の東側にあるため、ハサン湖の湖1つ分を西に押し出された格好のまま戦線は膠着。
結局、佐藤の連隊は、この2つの丘が連なる丘陵地帯を死守することに辛くも成功した。
清朝時代の国境線からは後退したものの、もう少し長く続いていたら、豆満江の西岸まで追いやられていた可能性もある。
わずか2週間の戦闘で、部隊損耗が50%に達っし戦線の維持は困難なほどの壊滅的被害を受けたが、佐藤の死後数十年後、ソ連の「グラスノスチ」(情報公開政策)やその後のソ連崩壊により、1993年の文書公開でソ連側の損害が甚大だったことが判明している。
ソ連側の指揮官ヴァシリー・ブリュヘルは、状況把握と部隊統率のまずさ、小さな丘陵地ひとつを奪取できなかったことでスターリンの機嫌を損ねたのだろう。事件後、ブリュヘルは「日本軍に協力したスパイ」という名目で、ソ連の秘密警察に逮捕・拷問され、拷問室で撲殺されて死亡した。
後のフルシチョフの時代に、スターリン批判が行われるようになると、スターリンの粛清による犠牲者として名誉回復され、ドキュメンタリー映画で紹介されたほか、ブリュヘルの遺族が出版した書籍などにより、張鼓峰事件(海外では「Battle of Lake Khasan」)も含め、ロシアでは著名な存在になっている。
事実に基づいた功績から、本来、人は評価されるべきだ。
張鼓峰事件について、国内のサイトでは略地図などしか見当たらなかったが、ロシアのサイトでは作戦図などを容易に見つけることができる:
1938年7月29日~31日:
1938年7月31日
1938年8月5日:
1938年7月29日~8月11日:
今現在、ここはロシア/北朝鮮国境に、中国領がくさびのように突き刺さったその最先端部にあり、Google Mapでも「地形」モードで等高線を表示すると、上記2つの丘陵やハサン湖、1938年7月〜8月の地図と比較しながら、日本軍とソ連軍のそれぞれの陣地や進軍の様子をたどることができる。
今や現代日本が、
そこに日本人が足跡を残したことさえ忘却の彼方に忘れ去り、振り返ることすらまずない遠い歴史の、暗く淀んだ片隅で
「あれは一体何だったんだ?」
「日本って何?」
「人間が人生で、大切にしなければならないものは何?」
などと問いかけてくる。
いつのことか、名前も知らない、はるか世界の辺境の地で、ボロ雑巾のように生命を落とすしかなかった多くの無名の魂を前に、人は何のために生きるかを考えさせてくれる。
時を越えた光を放つ、稀有で、偉大な魂に、心から敬意を捧げる。
S
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